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高坂弾正関連事項

高坂弾正(1527〜1578)
源助・源五郎・虎綱・昌信
春日弾正・香坂弾正とも
信濃国小諸城代→尼飾城代→海津城代
450騎(過大?)・食禄9000貫(武田軍最大の軍団・経済力)

下の各項目のボタンをクリックしてください。
注)文中の紺色の部分は『甲陽軍鑑』から引用しました。
名前 出生 出仕 誓詞
出世 海津城代 川中島の戦い 首塚
三増峠の戦い 三方ヶ原の戦い 高天神城攻略 長篠の戦い
信玄公の葬儀 北条夫人の輿入れ 死去 武田四名臣
「にげ弾正」 『甲陽軍鑑』    

名前
「某は高坂弾正と申て、信玄公御被官の内にて一の臆病者也。」(品第五)
一般的には高坂弾正の名で知られているが、実際の史料などでは香坂となっており、しかも、 この名が見られるのは永禄年間の数年だけで、その後は春日姓に戻している。
「高坂弾正」として有名なので、 たまに「春日虎綱」の名前で掲載されてたりすると誰?って感じ。 ところで、自分のことを”臆病者”って言えるヒトは決して臆病者じゃないと思うんですが。
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出生
「…父は春日大隅とて甲州伊沢の大百姓也。我等幼少にて親大隅に離、…」(品第五)
甲斐国伊沢(現・山梨県東八代郡石和町)生まれ。父は名字帯刀を許された豪農・春日大隅。幼少の時死別?
ちなみに名字帯刀を許された豪農とはいえ、百姓の出だったので、周囲の目は冷ややかで、苦労したようだ。
「高坂弾正をお尋なさるゝ。伊沢の春日大隅むすこと申。信虎公聞召、百姓を大身には 信玄の分別違なりと被仰。」(品第五十一)
信玄公亡き後、信玄公に追放された父・信虎が信玄公の息子である勝頼に会ったときのエピソードですが、 押しも押されぬ地位にある高坂にいまさらそんなこと言うのはアナタだけだと思われます。
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出仕
「…、姉むこと田地の公事を仕、我等まけ候時、即公事の場より召つかはるべきとの 上意にて、信玄公御年廿二歳、我等十六にてご奉公に罷出、…」(品第五)
姉婿と田地のことで訴訟をおこす。訴訟は負けてしまったが、公事(裁判)の場で才能を見い出され、 躑躅ヶ崎館に出仕。ときに16才。主君・武田晴信(信玄)公は22才。
このときから高坂の人生は一変したのです。人生ってどこでどうなるかわからない…
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誓詞
一、弥七郎に頻にたびたび申し候あひだ、了簡なく候。全く我が偽りになく候事
一、弥七郎伽に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とかの儀なく候。 なかんずく今夜は存じも寄らず候の事
一、別して知音申したきまゝ、色々走り廻り候えば、かへつて御うたがい迷惑に候。この条々いつはり候はば、当国 一、二、三大明神、富士、白山、殊に八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を蒙るべきものなり、よって件のごとし
内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候あひだ、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべく候
七月五日晴信(花押)
春日源助との
これは晴信(信玄)公が寵童・春日源助に宛てた誓詞で、内容は、弥七郎との 仲を疑っているようだが、自分はそんな気は全然なく、心変わりなどしてはいない。というもの。 この宛名の春日源助が後の高坂弾正である。
高坂好きなら必ず知ってる信玄公からの誓詞という名の浮気釈明文。 歴史系雑学本などでもネタにされてます。当のご本人様はいたって真面目なので、 あまり茶化さないでほしいのですが、仕方がないですね。「…候」「御…」と丁寧な言葉で書かれているところに注目。 単に小姓に宛てたものっていうのではなく、あくまで対等に扱ってることがわかります。 この誓詞がラブレターとも言われてる所以です。 社交辞令なのでしょうが、結構必死だったりして。
雑学本だけではなく、専門的な武田の本などにもちゃんと載っています。武田の研究者の間では「信玄公の純情さが読み取れる」 「冷酷と言われている信玄公の意外に微笑ましい一面」とか言われてたりする。好評ということなんでしょうか。 ちなみに私は本物を東京国立博物館で見ました。やっぱり微笑ましかったです。

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出世
最初の殊勲は天文二十一(一五五二)年の小岩嶽城攻略。この戦によって百騎の侍大将に抜擢される。 その後、信濃国小諸城代・尼飾城代・海津城代を歴任し、武田家臣団最大の戦力と食禄を得る。
出仕してから侍大将になるまでが異例なほど早かったので、信玄公が情に溺れたのではという噂が 立ったらしい。
百姓から城代へ。兵農分離以前ならではのことでしょうか。このあたりに戦国時代の 浪漫を感じます。
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海津城代
海津城(現・長野県長野市)は対上杉の最前線基地であり、川中島地方を治める機能を持つ重要な城だった。
高坂は海津城の置かれていた川中島地方(更級郡・埴科郡・水内郡・高井郡)の豪族に信玄公が 所領を与えたりする際に、信玄公の命を受けて伝達したり、詳しい指示を出したりしていた。
また、軍事指揮権のみ任された城代ではなく、この地方の支配も任された郡代としての性格も持ち合わせていた。 小県郡・佐久郡や上野への影響力も持っていた。
高坂は築城時から死ぬまでこの城の城代でありつづけ、重責を果たしている。
”高坂=謙信ストッパー”。不敗を誇る上杉謙信相手に領地を取られる こともなく、守り続けました。
また、獲得した領地の最前線というのは日和見の豪族などを支配下に置かなくてはならないので、支配するのに 困難な場所と言えます。実際、武田家が滅亡した直後から、このあたりの豪族たちは織田・上杉・北条の間で それぞれの状況において有利な側に付く姿勢を示しています。上杉の動向を見張りつつ、川中島地方を治めた というのは高坂の内政手腕の高さを物語っているのではないでしょうか。
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川中島の戦い
五回行われたとされる川中島の戦いの中でも、最も激戦となった戦いで、 通常、川中島の戦いと言えば、この戦いを指す。一万二千の兵力の上杉軍に対し、武田軍は二万。
永禄四(一五六一)年、九月九日、八幡原に向かう本陣と上杉軍が本陣を置く妻女山を背後から攻める別働隊に軍を分けた武田軍 であったが、それを見抜いた謙信は夜のうちに妻女山を下った。十日早朝、武田軍は深い霧の中から 突如現れた上杉軍と激突した。一万二千人を別働隊に割いた武田軍は劣勢で、信玄公の実弟・典厩信繁を はじめ、討死する者が多数出たが、妻女山を下りてきた別働隊が上杉軍を背後から攻め始めると、形成は 逆転し、不利になった上杉軍は越後に帰陣した。死者は両軍合わせて八千と言われる史上稀に見る大激戦となった。
『甲陽軍鑑』によると、この戦いで、高坂は山本勘介が考え出した「啄木鳥の戦法」で、別働隊の隊長を 任されたとされているが、実際は海津城を守備していたため、戦に参加していないようだ。
『甲陽軍鑑』の最大の見せ場にして、最もナゾな場面。史実とは異なる描写に彩られているようですが、 後世にできた川中島の戦いに関する書物は『甲陽軍鑑』を基にして書いてたりするので、これが定着しています。 しかし、この虚構とも言える『甲陽軍鑑』の川中島の戦いがなければ、これほどまでに後世に語り継がれたのでしょうか。
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首塚
川中島古戦場跡には現在でも首塚が建っている。これは激戦だった川中島の戦いの後、 高坂が敵味方の区別なく死体を手厚く葬り、建てたもの。このことに義理を感じた 上杉謙信はその後、塩止めで苦しめられている甲斐・信濃国に塩を送ったとされている。
謙信が塩を送った話は戦国の美談として有名ですが、実際にあった話ではないようです。 個人的には謙信の義理堅さがしのばれるいい話だと思います。「敵に塩を送る」という言葉はここからきています。
首塚の話も塩を送った話と一緒にもう少し有名になればいいのに…。川中島古戦場跡の首塚に説明板もあるので、 読んでくださいね。是非。

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三増峠の戦い
「…小田原表信玄勝利は如何とあれば、御かちなされて、御けがなり。」(品第三十六)
永禄十二(一五六九)年十月に小田原城を攻めた武田軍は城下に火を放ったのちに引き揚げた。 その途中、武田軍の退路を断とうとする北条氏照・氏邦軍と三増峠で戦いになった。 浅利信種が討死するなど苦戦はしたが、北条軍を撃退し、勝利を収め、無事帰陣した。
「高坂弾正みませ合戦くやむ事」(品第三十六)によると、信玄公率いる武田軍が小田原城を攻めるにあたり、 高坂は強く反対した。三増峠の戦いの勝利について信玄公が高坂にたずねたところ、 「お勝ちになられたのはケガの功名ですね。」と答えた。もし、出陣中に逆に甲州へ攻め込まれたら どうするつもりだったのか、弱い敵にお勝ちになっても、大きな不覚かと存じます…。
この言葉に信玄公は笑うしかなかった。
泣く子も黙る激辛コメント。『甲陽軍鑑』には勝頼や長坂・跡部に向けた辛口なコメントが多いんですが、 信玄公にも辛かった。なんとなく高坂の負け惜しみにも思える。笑ってすませた信玄公の懐の大きさを感じます。 こんな感じでモノの言い合える主従関係っていいですよね。
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三方ヶ原の戦い
元亀三(一五七二)年、西上作戦を開始した武田軍は二俣城を攻略した後、浜松付近に通りかかった。 これに対し、十二月二十二日、徳川家康は浜松城より出陣し、三方ヶ原で戦いとなった。武田軍の圧倒的な強さの前に家康は敗れ、 浜松城へ逃げ帰った。
「高坂弾正諫言付信長より刑部へ使者、同御手切之事」(品第三十九)によると、家康軍に大勝した後、 浜松城に敗走した家康を攻めるかどうか議論になった際、他の家臣が城攻めを主張する中で、「いま、浜松城を 攻めても落とすのに二十日はかかる。家康を攻めている間、十四ヶ国を有する信長に攻められたり、背後の上杉に動かれたり しては困難なので、京を目指すほうがいい」と言って反対した。 結局、信玄公は高坂の意見を聞き入れた。
慎重派で冷静沈着な高坂を表す有名エピソード。 その後、家康が天下を取ったことを考えると、ある意味、その時歴史は動いた!?
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高天神城攻略
「高坂弾正御盃を被下、立ながら長閑にむかひ、武田の御家滅亡と定らるゝ御盃なりと申。」(品第五十一)
天正二(一五七四)年、前年に死去した信玄公の跡を継いだ勝頼は高天神城を攻略した。その戦勝祝いの席で、慎重論を唱える 高坂が『甲陽軍鑑』では侫臣としてお馴染みの長坂長閑に一言。
『甲陽軍鑑』では勝頼は高坂たち信玄公子飼いの重臣の意見を聞かず、無理な戦を続けたとされています。 高天神城は信玄公がかつて落とせなかった城なので、この城を落とすことで勝頼は自分の力を示したかったようです。 その勝頼たちに向かって言った言葉。気持ちはわからないでもないがアンマリです。史実ではないでしょうが、 旧勢力と新勢力の深い溝が目に見えるようです。
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長篠の戦い
天正三(一五七五)年五月二十一日、勝頼率いる武田軍が織田・徳川連合軍と設楽原で激突した。 馬防柵や鉄砲の威力の前に馬場美濃・山県三郎兵衛・内藤修理・土屋右衛門尉ら武田家を支えてきた 重臣たちが次々と斃れ、武田軍は大敗を喫した。
『甲陽軍鑑』によると、高坂は長篠の戦いには越後の上杉謙信を押さえるため、参加しなかったが、 大敗を喫したあとの勝頼たちを駒場で迎え、その際、衣服や甲冑を取り替えさせ、 敗戦の見苦しさを感じさせないようにしてから帰らせた。
このエピソードも高坂の人となりを語るのに必ず出てきます。
長篠の戦いで討死した土屋右衛門尉は信玄公が亡くなったとき、殉死を願い出たのですが、高坂に止められました。 その高坂は一条信竜に殉死を止められました。土屋右衛門尉が討死したと知った高坂の心境はどのようなものだったのでしょうね。

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信玄公の葬儀
天正四(一五七六)年四月十六日、信玄公の葬儀が行われた。「御宿堅物書状」によると、 葬儀の前日、高坂弾正は塗籠に納められた信玄の遺骸を棺に移す役を命ぜられた。 そして、葬儀では家臣は皆、烏帽子姿で参列する中を「別して往年の因浅からざるに付て、頻りに悃望申し、 剃髪染衣の姿で御供」したのである。
信玄公との関係の深さを物語るエピソード。長篠の戦いの後のことなので、 より深い悲しみを感じます。
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北条夫人の輿入れ
高坂弾正、勝頼公へ御異見申五ヶ条は、
…(中略)…
一.右の上、氏康御娘子御座候由承リ及候間、是をむかへとり、勝頼公氏政公の御妹聟に御成御尤に候事。(品第五十二)
一.天正五年丁丑に小田原より甲府へ御輿入候て、氏政公の御妹聟に勝頼公御成候。高坂弾正、長篠ノ後三年已来、初今夜 心安候て、夜を能寐入申候は、小田原より御輿入たる故也と各に語申され候也。(品第五十三)
天正五(一五七七)年、北条氏政の妹が勝頼のもとへ輿入れした。長篠の戦いの後、高坂は勝頼にこの他に駿河・遠江を氏政 にゆずること、木曽義昌を上野小幡に移し、小幡上総介を木曽に移すこと、 長篠の戦いで討死した侍大将の子から同心を取り上げ、奥近習にすること、典厩(信豊)・穴山殿に腹を 切らせることの五ヶ条を諫言したのだが、実行されたのは氏政の妹を迎えることだけだった。
しかし、一つも実行されないのではと思っていた高坂にとっては大変嬉しいことだったようだ。
溝のできていた高坂と勝頼の間にここに至ってようやく和解の兆しが見えなくもないが、この後、 予想だにしない事態が起こったため、武田家の存続のために実行されたこの婚姻自体が勝頼に重くのしかかることとなります。 予想だにしない事態とは、上杉謙信の急死によって起きた後継者争い、御館の乱です。この戦いで勝頼は苦渋の選択をしなくてはならず、 結局、北条氏政の弟である上杉景虎側ではなく、景勝側についたため、北条氏との関係は悪化しました。
情報収集に優れ、対上杉の第一人者であった高坂にも謙信の急死は読めなかったんですね。一度、 衰退し始めたものは運にも見放されるのでしょうか。

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死去
天正六(一五七八)年、武田家の衰退を嘆きつつ、甲府の屋敷で病死した。
高坂が亡くなったのは天正六(一五七八)年五月十一日(「乾徳山恵林寺雑本」など)、同年五月七日 (『甲斐国志』)、同年六月十四日(「武田家過去帳」)とされ、特定されていない。
なお、同じ年の三月十三日に長い間、敵対関係にあった上杉謙信もこの世を去った。
高坂の墓は長野県長野市松代町豊栄の曹洞宗の寺・明徳寺にある。法号・憲徳院玄菴道忠大居士。
「おこり」という病気に効くと謂われ、墓石を削って持っていく人がいたらしい。
命日がはっきりわからないのが悲しいところですが、 謙信の死後、まもなく亡くなっているあたり、信玄公と謙信という両雄に象徴される一つの時代の終焉を感じさせます。
お墓には訪れたことがないので、行ってみたいです。墓石はホントに病気に効いたのか?気になるところです。

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武田四名臣
高坂は「武田四名臣」として知られている。ちなみに他の三人は馬場美濃(信春)・内藤修理(昌豊)・ 山県三郎兵衛(昌景)である。『甲陽軍鑑』の「品第四十三」には、
一.馬場美濃軍之被成様申上る。
一.山県三郎兵衛御働なされてよきとすゝめ申上ル。
一.内藤修理、何方へ御働と指図申上ル。其様子は、北条家をかすめ給ふにも、伊豆か相模か、 はちかたか、関東にては、新田・足利か、家康にては、遠州か三河か、信長、東美濃か、 扨は越後かと、様子をつもりて内藤申上る。
一.高坂弾正は、二ツなく敵国へ深キ働或ハ御一戦必御延引と斗申上ル。能ク隠密するにより、 働前にしれず。但侍大将衆は存ジ候なり。
…(中略)…
右弓矢の御談合、馬場美濃・山県三郎兵衛・高坂弾正・内藤修理・原隼人・土屋右衛門尉・ 小山田弥三郎七人なり。

戦の延期を申し上げるという役割から高坂の思慮深さとその性格を信玄公が高く評価していることを窺い知ることができる。
武田家にはよい家臣が多いのですが、この四人は 信玄公の信頼の厚さなどを考えると四名臣の名がふさわしいと思います。
ところで、「弓矢の御談合」の七人のうち、四名臣の三人を含め、五人が長篠の戦いで討死している 点に武田家の限界を感じざるを得ません。

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「にげ弾正」
「…童子共のざれことに、保科弾正鑓弾正、高坂弾正にげ弾正と申ならはすげに候。」(品第五)
高坂の異名。逃げと言っても、敵からスタコラサッサと逃げるというわけではない。情報収集・分析能力に長け、 決してムリな戦をしなかったからということ。
高坂が美形だったため、言い寄る女から逃げているとこからきたという説も結構有名で、 個人的にはこういういかにも俗説と思われる解釈スキです。ちなみに真田弾正(幸隆。幸村の祖父)は攻め弾正です。
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『甲陽軍鑑』
「某は高坂弾正と申て、信玄公御被官の内にて一の臆病者也。」
『甲陽軍鑑』は高坂が語っているようになっている書物で、江戸時代に広く読まれていた。 信玄公・勝頼の代の戦のこと、当時の他の戦国大名評、兵力の記録や当時のしきたり、「甲州法度之次第」など内容は多岐にわたる。 漢詩や和歌も随所に出てくる。
年代の誤り、虚構の混在などがあるため、史料としての評価は低いが、 武田氏を研究するにあたって欠かせない本である。
上のエピソードの数々はこれに載っています。 史実かどうか疑わしいモノもあるのですが、世に知られているものばかりなので。つまり、 史実かどうか疑わしいと思っても、武田のコトについてここまでイロイロ書き記した書物は他に ないので、皆、よりどころとしている重要な書物です。
以前は高坂に仮託して、江戸時代の軍学者・小幡景憲が書いたとする説が有力だったんですが、 近年、甲陽軍鑑に出てくる方言などから、高坂が元となるものを残し、後に小幡景憲が 編集したという説(酒井憲二氏)が有力になりつつあります。そのうち、”作者未詳”が”高坂弾正・作”に なる日もくるかも?個人的にはこの文章は信玄公を知っている人にしか書けないと思っているので、 そうなったら嬉しいです。
一貫して信玄公がいかに素晴らしい人物だったかということに重点を置いているため、後継者である勝頼の 評価が低いです。長坂長閑と跡部大炊助という家臣は完全に勝頼の侫臣として扱われています。 真の勝頼はもっと素晴らしい人物だったかもしれないけど、私のように『甲陽軍鑑』の世界 に浸りきってしまうと、なかなかそうは思えません。長坂・跡部も実際はどんな人物だったのでしょうか。 そう考えると、恐ろしい書です。なので、やっぱり、史料にするにはどうなんでしょう?
『甲陽軍鑑』での高坂は本当に温厚な性格だったのかと思ってしまうほど、キツい言動を見せてくれます。 あのくらいじゃないと、実際はやっていけなかったのかも。
『甲陽軍鑑』を読むと、つくづく信玄公は敵に回してはいけない人だと実感させられます。 そして、高坂自身も。ね、長坂&跡部(笑)。

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